タイトルの「一生モノの読解力を」は国語の授業をするうえでの私の理念であり、目標でもあります。
国語というのは難儀なもんで、
日本語の文章を読んで、日本語の文章で答えて、日本語の解説を聞いたり読んだりするので、わかっている気になるんですよね。
解説読んだり聞いたりした時点では「なるほどな~」「ふーん」と思っちゃう。
でも、次似たような問題に出くわしても解けない子が多いです。
こっから先は賛否両論あるでしょうが私の考えを書きます。
あくまでも私個人の考えです。
国語において私は解説をすることにあまり意味がないと思っています。
その時読んだ文章がどういう話だったか理解したところで、次また初見の文章の意味が分からないなら意味がないからです。
「読解力」は初見の文章を一人で読み解く力です。
模試や実力テストで初見の文章に出会っても、一人で理解できる力です。
ひいては、将来契約書や説明書、職場のマニュアルを一人で読める力です。
これは、生きていくうえで今までもこれからも必要な能力だと思っています。
SNS上でも、「え、この人そんなこと言ってないやん…」と思うことが多々あります。
この情報過多の社会で、情報を正確に読み取れないと本人が辛いだろうなあと思います。
話を戻して…
では、解説に重きを置かずに、何に重きを置いて授業するのか。
ヒントを出すことと、生徒が自力で解くことです。
繰り返しますが、あくまでも読解力はその子一人で読んで理解する力です。
だから一人で読むのをサポートします。
あくまでも読むのも解くのも生徒です。
私はあくまでもサポートです。
本文も設問も1~10まで説明しません。
全部説明するのはただの過保護です。
子供の怠慢を生みます。
例えるなら、1~10まで解説をするというのはゴールを生徒の目の前まで持ってくる行為です。
ゴールがどこにあったとしても、そこまで自力で走ってゴールできる子に私はなってほしいと思っています。
そのために必要な、「走り続ける体力」や「上手いペース配分」などを身につけるために授業はあると思っています。
記号問題で生徒の答えが②だったとして、
「②じゃなくて③が答えだよ~」と訂正することに何の意味があるでしょうか?
「③はこういう理由で答えなんだよ~」と解説することに何の意味があるでしょうか?
私はほとんどないと思っています。
「へえ~」と思って終わりのことがほとんどです。
だから「②はこういう理由で違う。もう一回考え直して」と考え直す時間をできるだけとるようにしています。
集団授業では毎回は時間をとれませんが、個別の時はほぼ確実に考え直させています。
それでもなかなか答えが出せなければ「○段落もっかい読んでみて」とかさらにヒントを出します。
そういや、昔生徒に、「模試のとき①を選ぼうと思ったら、先生が『いや①は○○って理由でちゃうやん』って言う声が聞こえた」と言われたことがありました(笑)
そのときはその子と「え、なにそれこっわ」と爆笑しましたが、この子はゴールが近くにないと悟ったら自分で考えて方向転換して走っていける子になったんだなと今はしみじみと成長を感じて嬉しく思います。
文責:吉田早岐
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