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迷子の勉強家を生まないために

勉強という言葉が丸い背中をしてあてもなくどこか一人歩きをしているように私には思えてしまう。例えば私にとっては勉強という言葉はそれを勉強と称するも些か違和感を覚えるほど、あまりにも自然な一連の自己投資だ。


けれども人によって勉強という言葉はその姿や纏っている景色をその都度変える。家で何時間もゲームのコントローラーと汗をその手に握りしめ続ける子供を見かねた親が彼もしくは彼女に「勉強しなさい」と言ったのなら、この場合の勉強という言葉にはその時間の使い方の指定という意図が含まれているのではないか。一方ある先生が私の至らなさ・知識不足を見かねて私に対し「勉強しなさい」と言ったのなら、その人は私の知識や技術不足を指摘しそれを磨けと伝えているのだろう。彼にとってはその時の私の時間の過ごし方などどうでもよく、その時までに私が身に着けなかったものの獲得を求めているのだ。けだし前者は過程に重きを置き、後者は結果に重きを置いているのではないだろうか。


 英語では勉強することを“study”や“learn”と表現する。前者はまさに過程に重きを置いており、後者は結果に重きを置いている。机に10時間向かった子供が英単語を10個しか覚えなかったとして、彼もしくは彼女はよくstudyをし、learnはあまり出来なかったのだ。言い換えれば彼もしくは彼女はよく“勉強”をし、あまり“勉強”ができなかったと言い換えられよう。


多くの場合過程は結果のために確実に必要であり、また結果を前提としないのでは過程は存在してはいけないと私は考えている。両者は表裏一体の存在であり、どちらも互いを前提として至る所に現れる。


 世の一般的な中学生が勉強する時の、彼もしくは彼女が期待されている結果とはさて一体なんだろうか。「将来大人になった時に困らないため」「入試において良い点数を出すため」「志望校に合格するため」「とりあえず時間の浪費が怖いので勉強にあてたいため」等長期的か短期的か具体的か抽象的か実用的か緊急かその色はきっと違えど、これらを抽出して得られる共通の主題は「子供のため」であろうか。


前述の通り勉強の見据えているその先も様々なモノであるが故に勉強という言葉の色も濃さもその内包する意味の広さも様々である。勉強という言葉はその性質上便利であるが故に時に不便なのだ。


 さてここで少し話を戻すが勉強には結果と過程があるのだが、私達大人が見ている結果というものを子供達は私達と同じほど意識的に見てはいない。


 そんな彼もしくは彼女が結果を獲得できるよう、きちんと過程をたどる事が出来るようないわば道標の働きをするのが評価であると私は考える。評価は適切であればあるほど道標としての役目を全うすることできる。適切な評価とは妥当であり、明確であり、公平であり、そのための例外も含めているものである。


 こと教育における評価において大事であるのが「何を評価対象とするのか」及び「どう評価するのか」だと私は思っている。実際現在の子供達がどれくらい適正に評価をされているのかとふと考える時がある。


 例えば中学校においては英語数学国語理科社会が「主教科」、その他の教科が「副教科」と、本当に定義としてきちんと存在するのかしないのかよく分からない言葉で称されることがあり、入試の筆記試験においてはその「主教科」なるものが主に重視される。かと思えば内申制度というものが導入されて、公立高校入試においては9教科の配点が均等に割り振られている。しかし蓋を開けてみれば、適切に運営されている勤勉で真面目な諸先生方もいらっしゃれば、中学校1年生の時に評定を4とつけてからは誰が何をしようがそのまま卒業までその数字を毛頭変えるつもりはないという先生もいるそうな。


 もちろん適切な評価というものはなかなか難しい。そもそも「公平性の定義とは」という議題で議論に花を咲かせてしまえば複雑性はさらに高層化していくだろう。しかし評価者はそれでも評価基準を独自で設けないといけない。そして時代の流れとともにその努力を絶えず続けないといけない。


 その時勢の中で大人が真っ当な評価を放棄しておいて子供に何かを期待するというのは筋も見当も違う話ではないだろうか。前述の通り評価とは道標のようなものであり、そういった姿勢は例えばランナーに間違った行き先を伝えておいて、その者に「なぜ君はゴールに辿り着けなかったんだ」と詰め寄るようなものである。そんな不親切な道標が町中にありふれてしまえば世の中は迷子だらけになってしまう。そしてそもそもどこが自分のゴールなのかますます分からなくなるだろう。


 もちろん大人になれば人は常に適切な評価の下で進み続けるわけではなく、あらゆる方面から押し寄せる理不尽の荒波に揉まれることもあるだろう。大人においてその時に必要な生きる力のようなものを子供のうちから身に着けさせることも大事だと主張する者もいるかもしれない。ただこの場でのその主張は私にとってはどうしても後付けの、付け焼刃の、その場しのぎの、誰かの都合を正当化するようなものに思えてならない。


 正しい教育というものがあるとするならば、そこにはきっと正しい評価があるのだと私は思っている。我々塾の人間の使命はきっと「子供を正しく導くこと」だと私は勝手に思っている。そのために子供をきちんと見てきちんと評価することが必要不可欠なのだろう。私もそれを忘れずに迷子にならないように今日も明日もその使命を心に刻んでいきたい。


自戒を込めて。


文責:平野淳一



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